2008.08.05 Tuesday
適性2 【2】
人間は本来地上で生活する動物である。猿から進化した人類には海を渡り、空を飛び、宇宙へ飛び出す力はもともとなかった。偶然の進化なのか、神の意志なのか分らないが、人類は高度な発展を遂げて、地球上の生態系を支配しうる力を持っている。
言語、文字、印刷、放送、インターネットなど、情報や知識の形式化や体系化のためのツールや媒体が発達して、情報や知識が共有され、蓄積され、伝承され、人類の進化や文明の発展に大きく貢献している。
個人としては不可能なことが多くても、人類全体としては不可能なことはほとんどない、全ては時間の問題だと思えるような科学技術の発展と文明の発達を実現している。
大企業など大きな組織は、能力を発揮して、多種多様なビジネスを実現しうる。小さな組織でも、多くのモノゴトに関わることは困難であっても、特定の分野や専門領域においては相当な能力を発揮しうる。
所属する組織の大小や状況を問わず、個人あるいは組織が発揮する能力と顧客や社会が求める能力の適合が必要である。そのために個人や組織には、自己研鑽が必要となる。それは、研究開発であり、継続的な学習である。日々の業務を遂行するなかで経験を高めることも研鑽となる。それは個人、または、組織の能力を高めたり、発揮するために不可欠なものである。
業務・資本提携や買収(M&A)などによる能力の増強もある。
顧客や社会が求める能力を把握して、それを磨き、高めるためにはコミュニケーションが必要である。それは顧客や社会のニーズを注意深く聞く活動であり、顧客や社会の行動や嗜好の変化を注意深く観察することである。
それは受動的な行動でもあるし、能動的な行動でもある。顧客や社会の真のニーズを把握して、さらにそれらを満たすためには、むしろ能動的なアクションが不可欠である。そこには自ら顧客や社会に働きかける挑戦が必要になる。
初期のアクションの段階では池に小石を投げ入れるように調和や秩序を保っている市場や社会に対して一時の波紋を作るだけに終わるかも知れない。「ポチャン」という音も波紋も小さすぎて顧客や潜在顧客に気付かれないこともあるだろう。
しかし、継続的に石を投じること、継続的な社会に対して働きかけること、情報を発信することによって、情報の伝達からフィードバックまでの円滑なコミュニケーションのサイクルが形成される。その中で自己の能力や適性は研ぎ澄まされる。
それは継続的な活動である。何らかのビジョン、あるいは仮説、そして、意志がなければそのような活動は続かない。適性を見出し、高め、深めるのはアクション(コミュニケーション)と学習の繰り返しが必要である。
【V.スピリット No.100より】
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2008.08.05 Tuesday
適性2 【1】
コンタクトレンズは眼球の形に合っていて、まばたきをしてもはがれ落ちないようになっている。一方で、外しやすいような素材が使われ、加工されている。車のシートなどもドライバーや乗員の体形に合わせて、体を包みこみ、長時間の運転や乗車を快適にするように工夫されている。
日常生活において製品やサービス、あるいはそれらを取り巻く環境が我々のニーズに合う形で提供されることは多い。特に日本企業はそのような製品やサービスの開発や提供を得意としている。
企業は顧客など他者に対する思いやりや気配りにおいて優れている。消費者は受身になり勝ちである。
他者を思いやり、また思いやりを持続できるものが、自己の「適性」ということができるだろう。適性とは探し求め続けられるものであるが、自然に与えられるもの、つまり、後から振り返ってはじめて気付くようなものである。
その入り口にあるのは「好きなもの」や夢や理想などである。我々は顧客など他者が求めるもので、他者が喜ぶモノを好きになる。他者が求めるモノは自己の能力に対する期待を反映する。また、他者が喜ぶのは自己の能力評価の結果である。人の活動において能力は欠かせない重要な要素である。
しかし、他者が求め、喜ぶものが自己の適性かと言えば、必ずしもそうではない。他者は、不当な要求をして、一時的な喜びや満足を得ることもある。他者の要求は自己が望むもので、かつ、能力的に実行可能なモノでなければならない。
馬に海を泳がせてはいけないし、ツバメに地上を走らせてもいけない。馬は地上を走ることによって、ツバメは空を飛ぶことによって能力を発揮する。それは、個人や企業も同じである。
馬は湖を泳いで渡ろうと考えないであろうし、ツバメは地上を走って移動しようとは考えないだろう。しかし、人は地上での生活に飽き足らず、海を渡ろうともするし、また、空を飛ぼうとして、宇宙までも生活圏として考え始めている。
対象となるものに対する好き嫌いは、本能なのか、潜在能力に対する無意識な評価なのか、思考錯誤の結果なのかは分らないが、自然に決まるようである。 (次回に続く)
【V.スピリット No.99より】
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2008.08.05 Tuesday
福田改造内閣
福田総理は8月1日夜に政権発足後筒の内閣改造を実施した。
ポスト福田の最有力候補である麻生氏を幹事長として、財務
大臣に伊吹自民党前幹事長、経済財政担当大臣に与謝野
前官房長官を起用するなど財政再建に配慮した体制となって
いる。これを受けて日経新聞とテレビ東京が実施した世論調査
で福田内閣の支持率は6月末の調査から12ポイント上昇して
38%となっている。
【WBCコメント】
・7月初旬に開催された洞爺湖サミットで一定以上の成果を得た
福田内閣が、その成功体験に慢心することなく、17人の閣僚の
うち13名を入れ替える内閣改造を断行したことは高く評価で
きるであろう。
・「国民目線の改革」、「安心実現内閣」を掲げ、消費者行政
担当大臣に郵政造反組の野田氏を起用するなど、様々な
配慮が見られる。
・一方で、景気は回復から後退局面入りが議論されている。
景気回復という認識を撤回したとたんに、景気が悪化する、
あるいは、なし崩し的に経済対策が行われて悪い循環を
生むのではないかと気がかりはある。
・基本的には、経済・産業界における自由競争の問題である
が、それを左右するのは政治のリーダーシップである。
・今回の内閣改造で打ち出した福田カラーを基に、信念の
ある積極的な活動に期待したい。
・基本的には、改革の推進以外に福田内閣が支持される
道はないだろう。改革を推進する中で、将来に対する
展望や財政に対する規律などに関して安定感や安心感を
示せるか、いかに打ち出すことができるかが問われる。
・一定の役割を終えたエンジンは休み、次のエンジンが
原動力となる。基本的な方針の共有は不可欠だが、組織や
システムの硬直性が、組織や社会の後退を招かないように、
柔軟で先進的な運営が必要である。
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2008.08.04 Monday
ビジネススクールが必要な理由 【3】
ビジネススクールに必ずしも通う必要はない。ビジネススクールは将来の成功を約束してくれるものでは決してない。ビジネススクールで教えられているような知識やスキルは実社会を通して学ぶことはできる。
一方で、ビジネススクールは成熟化する社会においてなくてはならないものである。何より、新しいモノごとに挑戦するマインドを偏りなく育てることができるのはビジネススクールのような独立した教育機関であろう。ビジネススクールは継続的な学習の機会を提供してくれる。「生涯学習」の重要性とビジネススクールの意義は重なる。ビジネススクールの発展は継続的な学習の重要さを象徴するものとなるだろう。
ビジネススクールは、経済、産業、企業、組織における情報やノウハウを収集、整理、体系化して、社会に対して新たな情報を発信する。それは、情報やノウハウの交通整理のようでもあるが、新たな情報やノウハウの創造でもある。
このような情報やノウハウ、あるいは、その根底にあるマインドは、ビジネススクールでの教育を受けた人々を通して社会に伝達される。ビジネススクールで学んだ人々の一つの重要な役割は、産業や組織運営に関わる情報やノウハウを周囲に伝道することのようである。それを率先して行うものをリーダー、支援的に行うものをコンサルタントと呼ぶこともできるであろう。このようなリーダーとコンサルタントは、職務上の立場の違いであって、同質の知識や能力、あるいは経験を必要とする。理想的には、それらの立場は互換的であるべきである。ビジネススクールで学んだ人々は、周囲の人々を教育する教師である。誤解を恐れずに言えば、社会活動における「ダシ」のような存在でもある。味を出して使い捨てになってしまうか、味を出しながら自らの価値を高めていけるかは本人次第である。
ビジネススクールの教育は、社会に伝達(伝道)される。決して一子相伝のような極意ではない。ビジネススクールで教育を受けなくても、人は人を通して学ぶことができる。また、ビジネススクールの教育はそうあるべきである。ビジネススクールは積極的に体系化された価値ある新しい情報やノウハウを社会に向けて
発信するべきである。それが出来ないとすれば、結局のところビジネススクールの力不足、あるいは、コミュニケーションのための努力不足以外のなにものでもないだろう。
組織の運営管理、あるいは、企業経営のためには3つの基本的な力が必要である。
○行動力(実行力)
○知力
○責任力
これらは全て相互に関連している。
行動力は能力や適性、知力は知識や情報、責任力は判断力、あるいは、先見性や人格に裏づけらてたものになるだろう。これらの力を育てるのがビジネススクールである。ビジネススクールを修了するためには、これらの力を一定以上身につけるか、あるいは、それらの重要性を理解することが要求される。これらの力を発揮するためには経験も必要になる。
組織において、これらの力を1人の経営者に求めることはできない。1人の経営者がどれだけ優れた力を持っていても、それより、仮に劣る力でも、それらを集結させた組織にはかなわないことがある。もっとも、個々の力を集結させる組織を作り得ない経営者は本当の意味で優れた力を持っているとは言えない。
組織が必要とする3つの基本的な力は、2人以上の経営者でしか分担し得ない。その分担の仕方は組織によって様々である。それが組織の個性にもなる。
役割分担をする経営チームに、ビジネススクールにおいて教育を受けた人材が1人くらいは必要であろう。何人かがビジネススクールにおける教育と同等の価値を持ち寄ればそれで良いということにもなるが、そのような経営者の独学、あるいは組織的な学習プロセスを支援するのは、やはり、ビジネススクールで学んだ人々、あるいは、ビジネススクール自体の役割であり、社会的な機能であり、また責任である。
そんなビジネスリーダーやビジネススクールが日本にも増えることを期待したい。
【V.スピリット No.98より】
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2008.08.04 Monday
ビジネススクールが必要な理由 【2】
「経営を教えることはできない」、「経営者を訓練することはできない」、「起業家を育てることはできない」と言う人がいる。ある意味において、これらの意見は正しい。
人材は、育てられたり、訓練されたりするのではなく、自然に「育ち」、自発的に「学ぶ」という側面がある。
戦後の日本はホンダの本田宗一郎氏やソニーの井深大氏など日本を代表する優れた起業家・経営者を生んだ。両氏を含めて、日本を代表する優れた経営者がビジネススクールで経営の教育を受けたという話はあまり聞かない。確率的に言えば400万社強の企業数に対して4,000人もビジネス教育を受けたトップ経営者がいて、役員として2万人もいれば、多い方だということになるのではないか?
感覚的にそんなにビジネス教育を受けた経営者がいないと感じるが、偏見だろうか?それはビジネス教育の限界を示しているようでもあるが、一方でビジネス教育産業の潜在的市場規模を示すものでもあるだろう。
人には3つの価値基準がある。それは「好き・嫌い」、「良い・悪い(善・悪)」、そして、「適・不適」という基準である。こらら3つの基準によってビジネス教育を受け、ビジネスリーダーを目指す人々が一定数以上いないということは、貯蓄率が低いことにも似て、将来の危機を予見することにもなるのではないだろうか?
日本の現状は、人々の「適・不適」という基準によってビジネス教育が選択されていないようである。それは労働者である我々の問題意識(危機意識)の問題でもあるが、教育機関の問題でもあるだろう。つまり、大切な将来を委ねるほどの教育機関、教育プログラム、教師がいないということなのだろう。絶対数が少ないという問題もあって自分に適したモノがないということなのだろう。
ビジネス教育は、義務教育ではないので、国など公的な関与は限定されるはずである。また、ビジネス教育の対象が主に民間企業の管理や運営であるため教育内容に関しても公的な機関が関与できる割合は限定されることだろう。しかし、そのような環境的な制約は、ビジネス教育が必要ないということを意味するものではない。これは「良い・悪い(善・悪)」の基準でしか判断しえないものであろう。
「小さな政府」、「民間にできることは民間に」という政治の流れは、このような議論と矛盾しないし、少なくともビジネス教育を抑制するものではないはずである。 (次回に続く)
【V.スピリット No.97より】
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2008.08.04 Monday
ビジネススクールが必要な理由 【1】
ビジネススクール、MBA(Master of Business Administration)、経営大学院などの話をすると風当たりは冷たいように思われる。年間のMBAの日本人入学者数は日本内外で2,000名程度ではないだろうか。入学者と同数の卒業生が毎年生み出されるとして、労働力人口において30年代のビジネススクール出身者が活躍していると仮定すれば、その数は6万人である。これは約6,700万人の労働力人口の1,000分の1、あるいは、0.1%に満たない。これでば、ビジネス教育を受けた者が、肩身のせまい思いをしても仕方がないかも知れない。
一方、アメリカではどうだろうか?正確なデーダを持たないので大雑把に推測してみたい。アメリカには200校以上のビジネススクールがある。毎年各校平均200名程度のビジネスリーダーの卵を生み出しているとすれば、毎年の卒業生は4万人である。30年代分であれば120万人となる。これはアメリカの労働力人口1.5億人の1%弱に当たる。
アメリカはビジネススクール発祥の国であり、人口も日本の2倍以上である。さらに世界中から優秀な人材を集め、高等教育や専門教育においてアメリカは世界をリードしている。
それにしても日本とアメリカのビジネス教育を受けた人口の差は明らかである。概算ではあるが、いくつかの前提を置くことで、大まかに実体をつかんいると言えそうである。
日本においてビジネス教育を受ける人口は、今の数倍あって良いであろう。2000年以降、国内のビジネススクールも注目を集めているが、まだまだ発展の余地はあるだろう?学生の数とともに、ビジネススクールの数が倍になっても良いということにもなるだろう。
日本では少子高齢化が避けられないことが、なかばあきらめのように語られている。21世紀半ばには2人で1人の高齢者(我々)を支えなければならないのであれば、人々はより効率的に働かなければならない。また、将来高齢者になる我々自身がもっと効率的に働き、高齢者を支えるとともに、老後の生活に対する蓄えをしなければならない。
人一倍富を蓄えて、人一倍豊な老後を独り占めしようなどということではなく、富を社会全体に適切に配分するビジネスリーダーの活動が不可欠である。また、その活動は日本国内に限った活動ではないだろう。人口の減少が続くとすれば、国際社会において日本の経済規模、地位、発言力は相対的に低下する。その中でいかに価値を創造して、富を拠点のある国内に呼び込むことができるかがビジネスリーダーに求められるであろう。
医者、弁護士、官僚、政治家なども社会において重要だが、今日の地球規模の自由競争社会において、経済や産業をリードする人材なしに、その他の人材がいくら充実してもあまり意味がないように思われる。
将来の問題や不安を解消するために、数校のブランド力のあるビジネススクールだけが頑張れば良いという問題では決してないようである。 (次回に続く)
【V.スピリット No.96より】
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2008.08.03 Sunday
ビジネススクールが教えないこと 【3】
ビジネススクールにおいて「リスクのとり方」は教えられない。それはビジネススクールの配慮によって教えられないものであって、また、教えたくても教えることが出来ないものである。
リスクをとるということは、不透明な環境において実際に意思決定して、決定に対してコミットして、目標の達成のために行動するということである。
ビジネススクールが提供することが出来るのは、それらのために役立つであろう基礎的な知識と、リスクを伴う意思決定や行動のためのシミュレーションの機会までである。
ビジネススクールでの教育を受けるために「勇気」や「覚悟」はいらない。それなりの勇気や覚悟がなければ、ビジネススクールの教育を受ける機会を手に入れることは出来ないし、一定のトレーニングを終了することは出来ないが、そこで勇気や覚悟が究極的に試されることはない。
ビジネススクールでの教育を受けるために、経営者としての資質やリーダーとしての可能性が評価されることはあるが、そのような評価が将来を完全に予測することはほとんどないようである。
Nothing is impossible. 努力するのも才能。
成功者は多くの試行錯誤と困難を乗り越えて成功をつかむ。しかし、その困難や試行錯誤が表舞台で語られることは少ない。人は、良いところや美しい部分を好む。それは成功者自身も同じである。ビジネススクールのような特別な機会が設けられなければ、成功者による成功論や経営論は、それを聞く人々から誤解を招いてしまうかも知れない。
Leaders speak with one voice.
成功した指導者の言動が相手に応じて大きく異なるのは適切ではないだろう。本音と建前を分けて考えるのは、日本の伝統的な価値観かも知れないが、それらのギャップを埋めるような思考や徳のようなものが必要である。
今のままではいけない。
未来は、過去と現在の先にあるが、今、現在の努力が明るい将来を約束してくれるものでは決してない。そうは言っても今努力するしかないのだが、将来に向けての「学習と成長の視点」が欠かせない。一方で、成長や学習などという耳障りの良い言葉によって足元を危うくしてもいけない。そこにあるのは「矛盾」や「混沌」である。そのような矛盾や混沌の中に、一定の方向性や規則性を見出す時にリスクのとり方が見えてくるようである。
「先人の知恵や歴史」と「自らの実践」しか問題に対する解答を与えてくれるものはないだろう。
重要なのは「今のままではいけない」ということを正しく理解して、適切に対処することである。
【V.スピリット No.95より】
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2008.08.03 Sunday
ビジネススクールが教えないこと 【2】
ビジネススクールでは「ケーススタディ」という教授法が活用されていて、企業の事例を活用して、その企業の経営を分析して、将来の戦略や事業のあり方などを考える。
一方で、現実の世界こそがケーススタディだと言うことも出来る。現実の世界は、過去の歴史とつながっていて、様々な資源や関係上の制約を受けている。また、将来に向けて解決されなければならない問題を多数抱え、何らかの解答が導き出されている。
現実の世界では決断や行動の結果が直接、個人や組織など、行動主体に対して跳ね返ってくる。行動主体は、常に何らかのリスクを負う。行動が正しければ報われ、判断を誤れば危機に直面することにもなる。「事実は小説よりも奇なり」である。
しかし、池の中のカエルは、となりの池を知らないものでもある。剣術修行に励んだチョンマゲ頭のサムライが、ピストルを持った洋服姿の外国人に対抗するようなことは避けるべきであると言うのは説教じみてしまうが、より広い視野で、良いモノを取り入れ、また、より良いモノを生みだしていくことが必要である。
視野を広げるのは、境界横断的な活動である。それは、情報の共有によって実現できる。家族、集団、会社、組織、社会など境界線が引かれがちな世界において重要なのは「教育」である。それは境界線を取り除く活動でもある。
一方で、教育にも問題はある。実業家、経営者、指導者を育成するビジネススクールの教育では、経営が主要な機能分野ごとに教えられる。現実の世界の実例を使って経営者としての思考、判断、行動の擬似体験(シミュレーション)が行われるが、そのシミュレーションが、知的好奇心を満たすためのゲーム、一時のエンターテイメント、あるいは、頭の体操で終わってしまっては意味がない。ゲームセンターのレーシングゲームで高得点を出す人が実際のレースで活躍できるわけではない。
それはシミュレーションの設計や運用側の問題でもあるが、シュミレーションを受ける側の問題でもある。
シュミレーションの設計者や運用者には、シミュレーションをより現実に近づけるような工夫や配慮が必要である。また、それを受ける人にとっては、経験を実際に活用する意志や思考が不可欠である。
貴重な時間や資金を投資してシミュレーション(教育・トレーニング)を受けることは、強い意志や高度な思考の表れでもあるだろう。しかし、シミュレーションに慣れると、シミュレーションを受けることが目的になってしまい、本来そのシミュレーションを受けることを決めた目的が曖昧になってしまことがある。 (次回に続く)
【V.スピリット No.94より】
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2008.08.03 Sunday
ビジネススクールが教えないこと 【1】
経営大学院などのビジネススクールは、経営者としての視点を養い、リーダーとしての思考を身に着け、自信を高めるために有効な教育機関である。
航空機エンジンから、医療用機器、金融、メディアまで多角的な事業ポートフォリオを維持するGEがビジネス界で高い評価を維持しているのは、GEが事業とその変革を生み出す「工場」であると同時に変革を主導する人材を生み出す教育機関であるからだと言える。それは選択と集中によって優位性を高める経営の次の段階の経営の一つの良いモデルとなるだろう。
人材育成型、人材輩出型のビジネスは、人のふんどしで相撲をとるような商売やインフラを整備して、その上で有能な役者に踊ってもらうビジネスとは異なる。
人材育成は、潤沢な資金、社会的な認知や信頼があるからこそできる「贅沢」である側面もあるであろう。しかし、人材が育たない組織に将来はない。そもそも人材の育成が出来ない組織は組織として成立しない。
人材を育成する組織の基本は、経営者自身の学習意欲であろう。それは現状に対する危機感や問題意識だと言い換えることも出来る。より多く、より広く、より深く学ぶために経営者は自分の持っている知識、情報、ノウハウを他者と共有する。知識、情報、ノウハウの共有やそこからのフィードバックを通して、経営者はより高度な気付きや学びを得ることが出来る。そんな活動や交流を通して組織は全体として発展し、また、成長していく。
製品の製造方法などに関わるものはやや異なるが、人に関わるもの、別な言い方をすれば、組織の運営や経営に関して秘密はないだろう。製造技術などにしても、人が関わる以上、厳重な情報管理や特許に守られていることに安住していては技術の進歩や情報的価値の劣化に伴って時代の底へと沈んでしまうだろう。
知識やノウハウが短期的な利益を稼ぐための「テクニック」で終わってしまっているようでは、持続的な成長や中長期的な発展は望めない。
学習において最も効果的なのは、体験すること、つまり、自分で直接取り組んでみることである。次に良いのは成功者など、一定以上の成果をあげた者、あるいは、失敗者のうち失敗という事実を克服した者の話を聞くこと、あるいは、それらを本などで読んで学ぶことである。
そのような、間接的に獲得される知識を自らの知識や能力として定着させるためには、それを実践してみる必要がある。自分の言葉で書き記すことや表現すること、また、書き記すことや表現出来ることも重要である。 (次回に続く)
【V.スピリット No.93より】
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2008.08.01 Friday
信頼
信頼とは、「信じて頼ること」と辞書に書いてある。ビジネスや経営において「信頼」は欠かせない要素である。
信頼という言葉は、良いもの、好ましいものを表すが、それは、悪いもの、好ましくないものの対極として表現されることが多い。例えば、借りたお金を返済しないで浪費してしまうような状況での返済、あるいは、破ることもできる約束の厳守などに関して信頼という言葉が使われる。
信頼という言葉が使われる時、その対極にあるリスクが意識される。信頼とは、そのようなリスクを克服する、能力、姿勢、態度についての評価である。
頼ることの出来ない能力、人格、経営、あるいは、存在などに対して信頼という言葉は使われない。あえて、そのようなものを評価するとすれば「信頼できない」ということになる。
信頼を生むのは、重力に逆らって無から有を創造する力、あるいは、負への好ましくない誘惑と決別して正しい結果を導くエネルギーである。信頼とは、そのような力やエネルギーの実績によって生まれる。そして、あたかも実績の延長、あるいは、慣性であるかのように、信頼は将来の予測や期待に結びつく。
信頼を得るにはどうしたら良いか?
信頼を得るためには、実績に基づいて他者の適切な評価を受けなければならない。権威者(オピニオン・リーダーなど)による評価は信頼を高める効果がある。また、「口こみ」のような身近な評価が信頼を支える。
信頼の構成要素を説明することは難しい。信頼を構成する要素は有機的に結びついていて、完全に分割して抽出することが出来ないようである。個々の要素が強い相関関係を持ち、また、卵と鶏のように無限のスパイラルのような因果関係を持つ。
それらをあえて論理的に表現しようとする時に示されるのは、表現者の考え方や価値観であり、方法論やノウハウ、あるいは、優先順位でしかない。
【V.スピリット No.92より】
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